渋沢栄一のすごいところまとめ(書きかけ)

渋沢栄一は明治~昭和にかけて活躍した企業家ですが、現代においても人気があり、理想とされる人物です。2024年に新1万円札の顔になることが予定され、2021年度の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公でもある渋沢栄一は、「日本資本主義の父」とも呼ばれ、今日に至る日本経済の礎を築いた人と言われています。渋沢栄一について多くの本が出版されていますが、「結局どんな人なの?」とざっくり知りたい方に向けて、渋沢栄一のすごいところを解説していきます。まずは手っ取り早く渋沢栄一について知りたいという方は、最後まで読んでいってください。

幕臣としても逸話の多い渋沢栄一

渋沢栄一は20代後半まで、江戸幕府で働く幕臣でしたが、幕臣になるまでの経緯がユニークで、彼の数奇な人生を象徴しているようです。渋沢栄一は天保11年(1840年)2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島である武蔵国榛沢郡血洗島村の裕福な農家に生まれます。渋沢家は藍を作ったり、絹を作るための蚕を育てたりしていましたが、渋沢栄一は少年時代から商売の才能があり、うまく大人相手に取引をしたと言う逸話があります。渋沢栄一が少年期を過ごした江戸時代は、「幕末」と呼ばれる時代で、海外からの圧力や社会情勢から、幕府を終わらせようという考えがでてきました。渋沢栄一も身分制度への不満などから幕府は倒すべきと考え、1863年、23歳の時に政治の中心・京都に来るのですが、当時の京都は「八月十八日の政変」と呼ばれる反幕府運動の鎮圧後であり、渋沢栄一たちが行いたかった反幕府運動がしづらい状況でした。さらに悪いことに、先行していた同士が捕まってしまい、その同士が渋沢栄一が書いた幕府批判の書簡を持っていたことから、進退窮まってしまいます。こうした中、知り合いであった一橋家の人物から一橋家に仕えてみないかと誘われ、渋沢栄一は一橋家に仕官することになります。一橋家と言えば、当時は一橋慶喜が当主であり、彼は後に徳川慶喜となり第15代将軍となる人物でした。つまり、渋沢栄一は幕府を倒すために京都に来たものの、何の因果か徳川と密接に関係している一橋家で働くことになります。
もちろん渋沢栄一も色々と思うことがあったようですが、働いてみたら働いてみたでなかなか仕事が楽しかったようで、仕事に精を出すようになります。当時の紙幣とも言える「藩札」の仕事をするなど後につながるような経済面の仕事をしていたようですが、幕府のために働く新選組と共同作戦をしたというエピソードもあり、文武両面で活躍していたようです。
こうした働きが評価されてか、フランスのパリ万博の視察に行く徳川慶喜の弟・昭武の随行員の1人として渋沢栄一が選ばれます。当時としてフランスに行けるなんて夢のまた夢だったので、渋沢栄一は大変喜びます。渋沢栄一たちパリ万博の使節は1867年の正月に横浜を出港し、万博をはじめとしてヨーロッパの社会に触れていきます。この経験は彼の後の活動につながっていきます。一方で、渋沢栄一にとってショッキングだったのは、彼がヨーロッパにいる最中に大政奉還が行われ、鳥羽伏見の戦いを経て、江戸幕府が崩壊したことです。これにより、渋沢栄一たちヨーロッパにいる幕臣たちも日本に引き上げることになります。

「合本主義」のために銀行を設立

1867年11月に日本に帰った渋沢栄一は、徳川慶喜が幕臣であった自分の身分を守るために色々と取り計らってくれたことを知り、慶喜が隠遁している静岡で余生を過ごそうと考えます。